2006年 09月 29日
「カブール発復興通信」(4)(5)(6)-2005年10月~12月 |
「カブール発復興通信」(4)
国連が史上初めて軍事目的ではなく人道目的のために地雷除去を実施する必要性を国際社会に訴えたのは、信じ難いかもしれないが、ほんの十数年前の1988年10月、アフガニスタンのためであった。これが「地雷対策」という分野の発端である。1991年、たった一億円弱の資金でアフガンNGOが地雷除去を始めた。現在、アフガニスタンには年間百億円の資金が地雷対策に投入されている。
現在、我々が地雷という言葉でイメージする武器を始めて使用したのはアメリカ南北戦争時(1861―65)の南軍の将軍ガブリエル・レインズであった。1862年5月4日、最初の被害が報告された。ところが、その効果を目の当りにして南軍の指揮官は地雷を野蛮なものだと自ら非難し、地雷使用を禁止してしまった。
それでも結果的には南軍・北軍の双方によって地雷の使用が続いた。1864年には北軍の攻撃中に地雷によって12人が死亡し80人が負傷した。これを見て、北軍の将軍ウィリアム・シャーマンが語った言葉が金言として今も残っている。彼は言った。「地雷の使用は戦争ではなく殺人だ」。
その後の戦争史は地雷の発展史でもある。シャーマンの言葉は無視され、地雷は戦争で最も頻繁に使用される武器の一つになった。地雷を仕掛けるのが軍事目的であれば、地雷を除去するのもまた軍事目的でしかなかった。それが、1988年まで続いたのだ。
「地雷対策」には、以下のような活動が含まれる。①技術的調査、②地図作成、③危険地域マーキング、④地雷・不発弾処理、⑤処理認定、⑥処理済土地の引渡し、⑦地雷危険教育、⑧被害者救済、⑨市民社会の地雷対策能力向上、⑩備蓄武器破壊などだ。
地雷除去という言葉がよく使われるが、それはこの一連のプロセスの一点に過ぎない。土壌のサンプルをとって、まるで化学実験のように爆薬物の含有率を調査する。
地図作成は航空写真をデジタル化して、それに地勢図、道路地図、地雷頒布図、建築物予定図など何種類ものデジタルマップを用途に応じて重ねて必要な地域だけをコンピュータのディスプレイ上に現し、必要なら印刷する。
地雷や不発弾の処理は気の遠くなるような作業だ。戦闘地は辺り一面が火薬にまみれていて専門に訓練された犬も鼻がおかしくなって、使えなくなる。機械による地雷発見や処理も進歩してきたが、大きな運動場のような場所なら使えても、山あり谷ありの複雑な地形で使える機械はまだ登場していない。結局、最後は人間の五感に頼ることになる。作業員の事故死や負傷は決して皆無にはならない。
1990年代初頭、地雷対策が始まった頃のアフガニスタンでは、月間約500件の地雷・不発弾事故が報告されている。その中で何人が即死・負傷したのかは正確には分からない。内戦が続いている中で全国統計など取れるわけもなく、おそらくまったく知られていない被害はこの数倍はあったのではないだろうか。現在でも、月間約百件の地雷・不発弾による被害が続いている。
地雷除去員の事故は1990年代、年間平均約50件であった。2000年以降は約10件に減少している。但し、地雷事故の減少とは逆にこの一年の間にテロによる地雷除去員の死亡・負傷が増加している。今年だけですでに5人の地雷除去員と三頭の犬がリモコン爆弾の犠牲になって亡くなった。
地雷対策全体に関わる政策形成も変化してきている。アフガニスタン全土に何発の地雷・不発弾があるかは実は誰も知らない。一千万個という人もいれば二千万個という人もいる。それをすべて除去することを夢見るよりも先にすることがあるのではないかという反省に立って、数年前から社会経済的アプローチと呼ばれるものが導入されている。
村人は経験によって、つまり村民の死や負傷によって、地雷・不発弾の存在場所をかなりよく把握しているものだ。その結果、水源地への通り道が使えなくなっていたり、広大な農耕地が放棄されていたりする。こういう負の社会的インパクトの大きな地雷・不発弾の調査を全国規模で行った結果、アフガニスタンの地雷対策の優先順位は大きく変わった。
(『フォーサイト』2005年10月号所収。見出しは「アフガンに眠る無数の地雷」。)
///END///
「カブール発復興通信」(5)
前号では、元々地雷対策といえば軍事目的のものであり、非軍事目的の「人道的地雷対策」が登場したのはほんの十数年前のことであった、というところまでを述べた。今回は地雷対策の現在をもう少し追ってみよう。
アフガニスタンは、全国土が一度は戦場になったような国だ。つまり、全国土が地雷で覆われていると言っても過言ではないだろう。そんな国で、復興援助事業として道路、空港、公共建築物などの建設ラッシュが続いている。しかし、地雷の存在のために、これらの事業は常に最初に地雷対策を必要とする。このような地雷対策を「復興地雷対策」と呼んでいる。
「復興地雷対策」も軍事目的ではないので、広義には「人道的地雷対策」であると言えるだろう。しかし、現在では一般人の地雷被害を最小化することを目的とした地雷対策のみを「人道的地雷対策」と呼び、個々の復興事業の初期準備として行われる「復興地雷対策」と区別している。
十数年前に世界で最初の「人道的地雷対策」が始まったのがアフガニスタンであれば、「復興地雷対策」という概念が登場したのもアフガニスタンであった。つまり、不幸な事態が連続したアフガニスタンは地雷対策先進国でもあるのだ。
そこでは、地雷対策をめぐる問題も先進的だ。地雷の調査・除去処理・検査などを行う人材を我々は地雷対策資源と呼んでいる。いくら世界中からお金が集まったところで、こういう人材が不足していればお金の使いようがない。アフガニスタンでは彼らの数はこの3年間で約3000人から約9000人に増加したが、彼らの需要は高まるばかりで追いつかない。
地雷対策資源が大規模な復興援助事業に大幅に吸収された結果、そのような事業とはほとんど関係のない村人たちの生命や生活を脅かす地雷のために割く資源が減少してしまった。「人道的地雷対策」の効率は、社会経済的アプローチによって向上したと前号で述べた。しかし、その効果も相殺されてしまったのだ。
これは地雷対策のための資源配分の問題だが、資源の枯渇、つまりやがて国際社会はアフガニスタンをもう一度忘れてお金も流れてこなくなるだろうと、誰もが予測しているため、今ある地雷対策資源を先に使った者が勝ちという心理が話をこじれさせている。
これに加えて、数年前から平和構築アプローチなるものも参入してきた。元兵士たちを一般社会に復帰させるプログラムがあるのだが(DDRと呼ばれる*)、元兵士たちを地雷除去員として訓練することによって、平和構築に貢献するという理論だ。これには「平和のための地雷対策」というプロジェクト名がつけられた。「戦争屋から平和の戦士」へという図柄は美しかった。
だが、アフガニスタンの治安の悪化によって、元兵士たちは民間セキュリティ会社から引っ張りだこになり、彼らは得意のスキルを生かして今は地雷除去員よりもはるかな高給で民間兵士として働いている。
単に言葉だけをキャッチフレーズとして使った援助プログラムの登場は絶えない。あまり言葉にとらわれると、何が問題なのかが見えなくなる。我々の直面している課題を整理しなおしてみよう。
「人道的地雷対策」は短期的には一般人の間での被害者減少を目指しているが、長期的には国家全体の復興に寄与する。「復興地雷対策」は長期的な開発を目的にしているが、短期的にも復興事業地域の被害者減少に寄与する。つまり、この二種類の地雷対策は相互に排他的な選択肢ではなく、もっとも効率的な組合せを発見するのが課題なのだ。
「人道的地雷対策」の過程は共同体の再生に直接寄与し、共同体間の細々とした抗争の解決に貢献もする。「復興地雷対策」が急がれるのは、「戦争をしない効果」を早く見せるためでもある。平和構築というスタンドアローンのプログラムが存在するわけではない。平和構築というのは、現場の実務者にとっては様々な援助プログラムの中に存在する「平和に貢献する要素」をいかに損なわないようにするかという課題なのだ。
つまり、人道から復興へ、復興から平和構築へという単線的な発展史が存在するわけではなく、地雷対策は複合的な課題の中で苦しみながら少しずつ進化してきているのだ。
*DDR:Disarmament, Demobilization and Reintegration の略。「武装解除・動員解除・社会復帰」と訳されることが多い。
(『フォーサイト』2005年11月号所収。見出しは「苦しみながら進化してきた地雷対策」。)
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「カブール発復興通信」(6)
女優かつ歌手のレイチェルは、ボディガードのフランクのあまりに細かい指示にうんざりする。ショービジネスに生きる人間がこれでは仕事にならないと。一方、フランクもその態度に激怒する。そうしないとレイチェルを守れないと。
これはホィットニー・ヒューストン(レイチェル役)とケビン・コスナー(フランク役)が1992年に共演した映画『ボディガード』の話だが、レイチェルとフランクの関係は、国連システム内で援助活動を行なう職員と、国連職員の安全を担当する職員との関係に似ている。
門限は午後九時、現地での買い物一切禁止(平和維持軍管轄下の免税店でのみ可)、国連敷地外での歩行禁止、国連施設ではないレストランでの飲食禁止、VHF無線機は24時間オンにして携帯、一日一回無線チェック、3回応答をしくじると国外退去処分、外出は最低2台の国連車でのみ許可、国連の発行した写真つきIDの提示なしに国連敷地内へ入ることは許可されない、すべての車両は敷地に入る前に車体の裏とボンネットの中に爆発物がないかを確認ーー等々が、これを書いている時点での我々に与えられている指示だ。
セキュリティの状況は最低週一回見直され、微調整されるが、大方は同じようなものだ。現地社会からまったく隔離され、いったい誰を援助しようというのだろう、これでは仕事にならない・・・。
しかし、セキュリティ担当者がきりきりする理由はもちろんある。今年の国際スタッフの被害はかなり嫌な感じで起こっている。車を停止させられ拳銃で頭を撃ち貫かれ一人即死。移動中に簡易リモコン爆弾で車ごと爆破され一人即死。インターネット・カフェへの自爆攻撃で一人即死。これらは明らかに国際スタッフを狙いうちにしている。メディアにあまり出ないアフガン人援助関係者の被害はこの数十倍はあっただろう。
今週になって米同盟軍はアフガニスタン東南部のパクティカ県の支配権を失ったことをとうとう認めたし、これまで落ち着いていた北部のマザリシャリフ周辺で自爆攻撃が始まり、すでに南部のカンダハル同様、不安定化が懸念され始めた。
2001年のボン合意後の約4年間に殺された米兵は186人だが、05年の11カ月弱だけで87人の米兵が殺された。つまり、過去4年間に殺された数の半分に相当する米兵がこの1年で殺されたことになるだろう。また、警察制度の立て直しは復興支援の大きな柱でもあったが、05年だけでアフガン人の警察官はすでに200人以上殺された。
なるほど、だから門限を決めたり、土嚢を積み上げたり、武装兵を雇ったり、防弾車を買ったりするのかといえば、実はセキュリティ対策はそれほどシンプルではない。セキュリティの理論はもう少し込み入っている。
最初に必要なことは、「私は誰であるのか」を問うことなのだ。レイチェルはなぜ危険な目にあうのか? 彼女は成功した美しい女優で歌手で、大金持ち。大勢の人に好かれ、注目を浴びている。それを知らずに、彼女を守ることはできないだろう。
「私は誰なのか」という問いは、徹底的に自分の属性を列挙せよということでもある。たとえば国籍、宗教、性別、所属組織、などの属性の違いによって、同じ時に同じ場所にいても、異なるセキュリティ対策が必要になるだろう。
セキュリティ対策の第二段階は、「今、私はどこにいるのか」を問うことだ。この場合「どこ」というのは単に場所のことではない。「どういう文脈にいるのか」ということだ。たとえば、ソ連侵攻時、タリバン支配下、ボン合意後の中でいつが一番危険かという問いには意味がない。異なる「私」にとってそれぞれは異なった「文脈」となり、危険度も異なってくるからだ。
つまり、危険度、あるいは安全度なるものを測る客観的尺度など存在せず、それは「私」と「文脈」の関係の中で、様々に変化しているものなのだ。そして、それを確定した段階で、ようやく安全対策という具体的な術を検討することが可能となる。
国家の安全保障も基本は同じことだ。さて、日本はこの二つの問いを徹底的に追求しているだろうか。日本国籍という属性を有して、異なる文脈間をしばしば移動する私にはそれが今とても気になる。
(『フォーサイト』2005年12月号所収。見出しは「セキュリティ対策「ふたつの変数」を問え」。)
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国連が史上初めて軍事目的ではなく人道目的のために地雷除去を実施する必要性を国際社会に訴えたのは、信じ難いかもしれないが、ほんの十数年前の1988年10月、アフガニスタンのためであった。これが「地雷対策」という分野の発端である。1991年、たった一億円弱の資金でアフガンNGOが地雷除去を始めた。現在、アフガニスタンには年間百億円の資金が地雷対策に投入されている。
現在、我々が地雷という言葉でイメージする武器を始めて使用したのはアメリカ南北戦争時(1861―65)の南軍の将軍ガブリエル・レインズであった。1862年5月4日、最初の被害が報告された。ところが、その効果を目の当りにして南軍の指揮官は地雷を野蛮なものだと自ら非難し、地雷使用を禁止してしまった。
それでも結果的には南軍・北軍の双方によって地雷の使用が続いた。1864年には北軍の攻撃中に地雷によって12人が死亡し80人が負傷した。これを見て、北軍の将軍ウィリアム・シャーマンが語った言葉が金言として今も残っている。彼は言った。「地雷の使用は戦争ではなく殺人だ」。
その後の戦争史は地雷の発展史でもある。シャーマンの言葉は無視され、地雷は戦争で最も頻繁に使用される武器の一つになった。地雷を仕掛けるのが軍事目的であれば、地雷を除去するのもまた軍事目的でしかなかった。それが、1988年まで続いたのだ。
「地雷対策」には、以下のような活動が含まれる。①技術的調査、②地図作成、③危険地域マーキング、④地雷・不発弾処理、⑤処理認定、⑥処理済土地の引渡し、⑦地雷危険教育、⑧被害者救済、⑨市民社会の地雷対策能力向上、⑩備蓄武器破壊などだ。
地雷除去という言葉がよく使われるが、それはこの一連のプロセスの一点に過ぎない。土壌のサンプルをとって、まるで化学実験のように爆薬物の含有率を調査する。
地図作成は航空写真をデジタル化して、それに地勢図、道路地図、地雷頒布図、建築物予定図など何種類ものデジタルマップを用途に応じて重ねて必要な地域だけをコンピュータのディスプレイ上に現し、必要なら印刷する。
地雷や不発弾の処理は気の遠くなるような作業だ。戦闘地は辺り一面が火薬にまみれていて専門に訓練された犬も鼻がおかしくなって、使えなくなる。機械による地雷発見や処理も進歩してきたが、大きな運動場のような場所なら使えても、山あり谷ありの複雑な地形で使える機械はまだ登場していない。結局、最後は人間の五感に頼ることになる。作業員の事故死や負傷は決して皆無にはならない。
1990年代初頭、地雷対策が始まった頃のアフガニスタンでは、月間約500件の地雷・不発弾事故が報告されている。その中で何人が即死・負傷したのかは正確には分からない。内戦が続いている中で全国統計など取れるわけもなく、おそらくまったく知られていない被害はこの数倍はあったのではないだろうか。現在でも、月間約百件の地雷・不発弾による被害が続いている。
地雷除去員の事故は1990年代、年間平均約50件であった。2000年以降は約10件に減少している。但し、地雷事故の減少とは逆にこの一年の間にテロによる地雷除去員の死亡・負傷が増加している。今年だけですでに5人の地雷除去員と三頭の犬がリモコン爆弾の犠牲になって亡くなった。
地雷対策全体に関わる政策形成も変化してきている。アフガニスタン全土に何発の地雷・不発弾があるかは実は誰も知らない。一千万個という人もいれば二千万個という人もいる。それをすべて除去することを夢見るよりも先にすることがあるのではないかという反省に立って、数年前から社会経済的アプローチと呼ばれるものが導入されている。
村人は経験によって、つまり村民の死や負傷によって、地雷・不発弾の存在場所をかなりよく把握しているものだ。その結果、水源地への通り道が使えなくなっていたり、広大な農耕地が放棄されていたりする。こういう負の社会的インパクトの大きな地雷・不発弾の調査を全国規模で行った結果、アフガニスタンの地雷対策の優先順位は大きく変わった。
(『フォーサイト』2005年10月号所収。見出しは「アフガンに眠る無数の地雷」。)
///END///
「カブール発復興通信」(5)
前号では、元々地雷対策といえば軍事目的のものであり、非軍事目的の「人道的地雷対策」が登場したのはほんの十数年前のことであった、というところまでを述べた。今回は地雷対策の現在をもう少し追ってみよう。
アフガニスタンは、全国土が一度は戦場になったような国だ。つまり、全国土が地雷で覆われていると言っても過言ではないだろう。そんな国で、復興援助事業として道路、空港、公共建築物などの建設ラッシュが続いている。しかし、地雷の存在のために、これらの事業は常に最初に地雷対策を必要とする。このような地雷対策を「復興地雷対策」と呼んでいる。
「復興地雷対策」も軍事目的ではないので、広義には「人道的地雷対策」であると言えるだろう。しかし、現在では一般人の地雷被害を最小化することを目的とした地雷対策のみを「人道的地雷対策」と呼び、個々の復興事業の初期準備として行われる「復興地雷対策」と区別している。
十数年前に世界で最初の「人道的地雷対策」が始まったのがアフガニスタンであれば、「復興地雷対策」という概念が登場したのもアフガニスタンであった。つまり、不幸な事態が連続したアフガニスタンは地雷対策先進国でもあるのだ。
そこでは、地雷対策をめぐる問題も先進的だ。地雷の調査・除去処理・検査などを行う人材を我々は地雷対策資源と呼んでいる。いくら世界中からお金が集まったところで、こういう人材が不足していればお金の使いようがない。アフガニスタンでは彼らの数はこの3年間で約3000人から約9000人に増加したが、彼らの需要は高まるばかりで追いつかない。
地雷対策資源が大規模な復興援助事業に大幅に吸収された結果、そのような事業とはほとんど関係のない村人たちの生命や生活を脅かす地雷のために割く資源が減少してしまった。「人道的地雷対策」の効率は、社会経済的アプローチによって向上したと前号で述べた。しかし、その効果も相殺されてしまったのだ。
これは地雷対策のための資源配分の問題だが、資源の枯渇、つまりやがて国際社会はアフガニスタンをもう一度忘れてお金も流れてこなくなるだろうと、誰もが予測しているため、今ある地雷対策資源を先に使った者が勝ちという心理が話をこじれさせている。
これに加えて、数年前から平和構築アプローチなるものも参入してきた。元兵士たちを一般社会に復帰させるプログラムがあるのだが(DDRと呼ばれる*)、元兵士たちを地雷除去員として訓練することによって、平和構築に貢献するという理論だ。これには「平和のための地雷対策」というプロジェクト名がつけられた。「戦争屋から平和の戦士」へという図柄は美しかった。
だが、アフガニスタンの治安の悪化によって、元兵士たちは民間セキュリティ会社から引っ張りだこになり、彼らは得意のスキルを生かして今は地雷除去員よりもはるかな高給で民間兵士として働いている。
単に言葉だけをキャッチフレーズとして使った援助プログラムの登場は絶えない。あまり言葉にとらわれると、何が問題なのかが見えなくなる。我々の直面している課題を整理しなおしてみよう。
「人道的地雷対策」は短期的には一般人の間での被害者減少を目指しているが、長期的には国家全体の復興に寄与する。「復興地雷対策」は長期的な開発を目的にしているが、短期的にも復興事業地域の被害者減少に寄与する。つまり、この二種類の地雷対策は相互に排他的な選択肢ではなく、もっとも効率的な組合せを発見するのが課題なのだ。
「人道的地雷対策」の過程は共同体の再生に直接寄与し、共同体間の細々とした抗争の解決に貢献もする。「復興地雷対策」が急がれるのは、「戦争をしない効果」を早く見せるためでもある。平和構築というスタンドアローンのプログラムが存在するわけではない。平和構築というのは、現場の実務者にとっては様々な援助プログラムの中に存在する「平和に貢献する要素」をいかに損なわないようにするかという課題なのだ。
つまり、人道から復興へ、復興から平和構築へという単線的な発展史が存在するわけではなく、地雷対策は複合的な課題の中で苦しみながら少しずつ進化してきているのだ。
*DDR:Disarmament, Demobilization and Reintegration の略。「武装解除・動員解除・社会復帰」と訳されることが多い。
(『フォーサイト』2005年11月号所収。見出しは「苦しみながら進化してきた地雷対策」。)
///END///
「カブール発復興通信」(6)
女優かつ歌手のレイチェルは、ボディガードのフランクのあまりに細かい指示にうんざりする。ショービジネスに生きる人間がこれでは仕事にならないと。一方、フランクもその態度に激怒する。そうしないとレイチェルを守れないと。
これはホィットニー・ヒューストン(レイチェル役)とケビン・コスナー(フランク役)が1992年に共演した映画『ボディガード』の話だが、レイチェルとフランクの関係は、国連システム内で援助活動を行なう職員と、国連職員の安全を担当する職員との関係に似ている。
門限は午後九時、現地での買い物一切禁止(平和維持軍管轄下の免税店でのみ可)、国連敷地外での歩行禁止、国連施設ではないレストランでの飲食禁止、VHF無線機は24時間オンにして携帯、一日一回無線チェック、3回応答をしくじると国外退去処分、外出は最低2台の国連車でのみ許可、国連の発行した写真つきIDの提示なしに国連敷地内へ入ることは許可されない、すべての車両は敷地に入る前に車体の裏とボンネットの中に爆発物がないかを確認ーー等々が、これを書いている時点での我々に与えられている指示だ。
セキュリティの状況は最低週一回見直され、微調整されるが、大方は同じようなものだ。現地社会からまったく隔離され、いったい誰を援助しようというのだろう、これでは仕事にならない・・・。
しかし、セキュリティ担当者がきりきりする理由はもちろんある。今年の国際スタッフの被害はかなり嫌な感じで起こっている。車を停止させられ拳銃で頭を撃ち貫かれ一人即死。移動中に簡易リモコン爆弾で車ごと爆破され一人即死。インターネット・カフェへの自爆攻撃で一人即死。これらは明らかに国際スタッフを狙いうちにしている。メディアにあまり出ないアフガン人援助関係者の被害はこの数十倍はあっただろう。
今週になって米同盟軍はアフガニスタン東南部のパクティカ県の支配権を失ったことをとうとう認めたし、これまで落ち着いていた北部のマザリシャリフ周辺で自爆攻撃が始まり、すでに南部のカンダハル同様、不安定化が懸念され始めた。
2001年のボン合意後の約4年間に殺された米兵は186人だが、05年の11カ月弱だけで87人の米兵が殺された。つまり、過去4年間に殺された数の半分に相当する米兵がこの1年で殺されたことになるだろう。また、警察制度の立て直しは復興支援の大きな柱でもあったが、05年だけでアフガン人の警察官はすでに200人以上殺された。
なるほど、だから門限を決めたり、土嚢を積み上げたり、武装兵を雇ったり、防弾車を買ったりするのかといえば、実はセキュリティ対策はそれほどシンプルではない。セキュリティの理論はもう少し込み入っている。
最初に必要なことは、「私は誰であるのか」を問うことなのだ。レイチェルはなぜ危険な目にあうのか? 彼女は成功した美しい女優で歌手で、大金持ち。大勢の人に好かれ、注目を浴びている。それを知らずに、彼女を守ることはできないだろう。
「私は誰なのか」という問いは、徹底的に自分の属性を列挙せよということでもある。たとえば国籍、宗教、性別、所属組織、などの属性の違いによって、同じ時に同じ場所にいても、異なるセキュリティ対策が必要になるだろう。
セキュリティ対策の第二段階は、「今、私はどこにいるのか」を問うことだ。この場合「どこ」というのは単に場所のことではない。「どういう文脈にいるのか」ということだ。たとえば、ソ連侵攻時、タリバン支配下、ボン合意後の中でいつが一番危険かという問いには意味がない。異なる「私」にとってそれぞれは異なった「文脈」となり、危険度も異なってくるからだ。
つまり、危険度、あるいは安全度なるものを測る客観的尺度など存在せず、それは「私」と「文脈」の関係の中で、様々に変化しているものなのだ。そして、それを確定した段階で、ようやく安全対策という具体的な術を検討することが可能となる。
国家の安全保障も基本は同じことだ。さて、日本はこの二つの問いを徹底的に追求しているだろうか。日本国籍という属性を有して、異なる文脈間をしばしば移動する私にはそれが今とても気になる。
(『フォーサイト』2005年12月号所収。見出しは「セキュリティ対策「ふたつの変数」を問え」。)
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by yoshilog
| 2006-09-29 19:43
| Kabul